日本人はとにかく「変な人」に厳しいと思う。
人はそれぞれ身体の形から頭の中身までみんな違う。誰ひとりとして自分と同じ人間は存在しないし、それが個性というものだ。みんな違ってみんないい。
しかし、世の中には自分の価値観の中では理解できない人や常識では考えられないような行動をする、あるいは価値観を持った人がいる。日本人はこういった人たちにとにかく厳しい。理解をしようとせず、はねつけようとする。
1人の人間にはいろんなものがその人に影響を与え、それらがその人の性格や人格といったものを形成していく。その人が人生のなかで経験してきたことに基づいて、その人独自の価値観や思想・行動パターンなどが作られる。それが個性というものだ。
しかし、日本人はどうも、自分が理解できない個性や常識はずれな個性を受け付けない傾向がある。僕はそんな社会に疑問を感じる。
そのことについてAさんという人物を例にあげて考えてみることにする。
Aさんが、コンビニで万引きをしてしまったとする。このことがテレビニュースで報道されたとしよう。その報道を見た世間の人々は、Aさんのことを「万引きを犯した犯罪者」だとか「しょうもないやつ」などという評価を下すだろう。たしかに報道上、Aさんはコンビニで万引きを犯した犯罪者だ。
しかし、Aさん自身にとっては止むを得ない犯罪行為だった。お金がなく、ここで何か食事をしなければもう生きることさえ難しい状態だった。そんな状況があって、止むを得ず万引きをしてしまったとする。
このAさんが万引きに至った背景を聞いて、Aさんに同情するのかどうか、という議論はここでは問題ではない。
ここで問題なのは、Aさんのことを単に「犯罪者」としか認識しないことである。
万引きという犯罪を犯した人物は、たしかに「理解できない人」もしくは「常識はずれな人」かもしれない。
しかし、日本人が間違っているのは、「Aさん=万引きをする人」と、考えてしまうところである。ニュースで犯罪者として報道されると、世間の人はその犯人のことをどこにいっても「悪いことをする人」のように思ってしまう。
実際はそうではない。Aさんが犯罪者となったのは、Aさんが「万引き行為をした」からである。お金がなく、飢え死にしそうだったAさんにはいろいろな選択肢があったことだろう。街行く人に食べ物を乞う、とか、親戚に連絡して保護してもらうとか、その場しのぎで道端の雑草を食べる、とかさまざまな選択肢が考えられる。
しかし、餓死の危険に瀕している状況で、Aさんは「万引き行為」という選択肢をチョイスした。その結果、Aさんは犯罪者となってしまったのである。
ややこしい話ではあるが、日本人が「変な人」を理解しようとせずはねつけてしまうのは、今回の例でいうと、「Aさん=犯罪者」という認識をしてしまってAさんの人格自体を否定しているからだ。
そうではなく、Aさんがした行為でまずかったのは、飢え死にを防ぐために考えられる選択肢の中で、違法である「万引き行為」をチョイスしたこと、である。Aさんの存在自体や人格自体がまずかったわけではない。そのチョイスが間違っていたのだ。
日本人は、自分が理解できない人の存在自体、あるいは人格自体を否定する。自分にとって「変な人」のことは、その人の人格自体を「変」だと思ってしまう。「変」なのは、その人の行為や価値観である。存在や人格は「変」ではない。
身近な人間関係の中でも、自分には理解できないような行為・発言をする人がいることがあるだろう。そういうときでも、その人の存在・人格を簡単に否定してはいけない。その人が選択した行為・発言が間違っていた、もしくは自分には理解できないものだっただけなのである。