岡田斗司夫FREEexさんと内田樹さんの対談本『評価と贈与の経済学』を読んだ。
正直、社会のことや経済のことなど、小難しいことはよく分からない。無知なりに読んで学んだことを書いてみる。
とりあえず、おもしろいと思った箇所や気になったところを引用。
岡田:近未来社会の人々は、そういった拡張型家族コミュニティに参加できる幸運な人たちと、イワシ的に生き、漫画喫茶みたいなところに住んでいるスナフキン的な人たちとに二極化して、階層化が進んでいくんでしょうね。
スナフキン的というのはモノを持たず、家もない、しがらみを極力持たないで暮らそうとする人たちです。そういった人たちは、逆にいい人であることが重要になってきます。いい人になるしかないという言い方もできる。なぜなら、手助けをしてもらえるためには自分が周囲にいい人だと思われてないとダメだからです。
では、どうやっていい人になればいいのか。それは困ってる人を助けるという基本的なことの積み重ねじゃないかと思うんです。みずからすすんで困ってる人を探して助けに行く。
血縁関係に関わらず、同じ空間に寝食をともにする。もともとは赤の他人の人と「家族」のような関係になってお互いの生活を支えあっていく。それが拡張型家族コミュニティ。
一方、モノも人間関係も最小限にとどめ、もの静かに個人で生きていこうとするのが、スナフキン的生き方。
この孤独なスナフキン的生き方をする人たちが、生き延びるためには「いい人」であることが重要だと岡田さんは言う。それはつまり、「人助け」をするというごくシンプルな行動を大切にするということ。
がしかし、スナフキン的生き方をする人は、「人助け」をすることにあまり利益を感じられないから「いい人」になれず、むしろ孤立していっているんじゃないか、という指摘も。
岡田:コミュニティでは、自分が誰かの世話をしても、その世話が返ってくるかどうかわかりません。そうした不明瞭さがあるから、面倒に感じるんでしょうね。
(中略)
小さいコミュニティを短期スパンでとらえてしまったら、なにか人に貸して返ってこないと、その一回目で懲りてもう二度としなくなる。
「人助け」、つまり自分から人になにかを与えるという行為をしたあと、すぐにその分の見返りを求めてしまうことが問題だと。すぐに見返りが返ってこないから、「人助け」にメリットを感じなくなってしまっている、と。
内田:人の世話をするということを、自分が「持ち出し」でやっていて、その分「損をしている」というふうに考えるところに最初のボタンの掛け違いがあるんだと思う。贈与からはじまるんじゃないんだから。かつて自分が贈与された贈り物を時間差をもってお返しすることなんですから。
自分が人に貸せるくらいのお金があるとしたら、それは誰かからもらったから手元にあるわけで、自分ひとりでお金を貸せるような身分になったわけじゃない。「全部オレの手柄だ」と考えると、誰にも借りがないんだから、誰にも貸さない、誰にももらっていないんだから、誰にもやらないという話になる。でも、そういう人のところに実はお金なんか集まってこないんですよ。
(中略)
自分が経済活動の始点であるわけじゃないんです。
(中略)
自分が経済活動の主体だと思っているから、贈与の意味がわからなくなる。
そもそも贈与とは、人になにかを与えることとはなんなのか、を内田さんが上記のように説明してくれている。贈与とは、かつて自分が誰かからもらったものを、今度はまた別の人に与えていくということだ、と。
この話の直後に、贈与をサッカーのパスに例えて話が展開していく。
内田:「オレはおまえのためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って言って渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。あっちからパスが来たから、次の人にパスする、そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。パス出さないで待っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。
内田:なんでもいいから自分から何か他人に贈与できるものはないかということをいつも考えていないとね。ファンタジスタって、たぶんずっと「どこにどういうパスを出したら、ゲームが楽しくなるか」ということを考えていると思うんです。想像しうる限りのパスラインをいつも脳内でシミュレートしているプレイヤーだけが、瞬間的にありえないパスラインにボールを送り込める。
つねに経済活動というのは、人から人へとパスが行われている。なのに、「これはオレが自力で手に入れたんだ」と勘違いしているから、人になにかを与えたときにすぐに相応の見返りがないと「損をした」と考えてしまう。
なるほど、と思わされた。だから、なるべくパスをもらうためには、まずは自分からパスをしなさい、ということだ。どんどん他人になにかを与える「いい人」がこれからは社会で生きていける、ということがこの本の最大の主張なのかな、と思った。
僕は人になにを与えることができるだろうか。それに僕はこのブログを通して、読者になにかを与えられているのだろうか。今まではあまり「読者に有益な情報を」ということは意識していなかった。
が、だんだんと読者もアクセスも増えてきたところだし、読者になにかを提供できるブログでありたいなあ、とも思う。僕と同じように、パーソナリティに悩んでいる人に安心感と共感と「一緒にがんばろう」という気持ちを与えることができれば、最高だなと思う。
最後にまとめると、この本はだんだんと行き詰まりに到達しつつある日本社会の分析と、これからの新しい社会、生き方のイメージを読者に与えてくれるのではないかな、と思った。おしまい。