昨日書いた記事に関して多くの人から意見をいただいた。(自分を「肯定」することと「正当化」することは違う)
いろんな方の意見や考えを読んで、だいぶもやもやが取れた。そのなかでもとくに参考になったコメント等をピックアップして、さらにここで考えを整理していきたい。
まず昨日、僕が疑問点として挙げていたのが、
自分を「肯定」することは精神を安定させ、自分を成長させるためにも良いことだが、
「正当化」することは開き直っているようなものであって、自分を「堕落」させてしまうのではないか?
ということだった。なるべく自分を認めてあげたい、ありのままを受け入れたいと意識していたら、なんだかこれは正当化して開き直っているだけなんじゃないか?と不安になったことからこの疑問を持つようになった。
この疑問、そして不安を解消するのに参考になったコメントを以下に挙げていく。まずははてなブックマークのコメントから。
自分を「肯定」することと「正当化」することは違う - 生きづらいふ
肯定するってのは自分に存在価値があることを認めることで、別に良い悪いとかいう価値評価をしている訳ではないと思うんだな
2014/12/09 03:38
自分を「肯定」することと「正当化」することは違う - 生きづらいふ
正当化は評価。肯定は観察。自分に何か意味付けするから評価になる、意味付けせず観察して全てを自己認識するのが肯定。追加:評価してしまう自分を「あぁ今評価してるぞ」と認識し受容するのは肯定。
2014/12/09 09:19
「ああ、なるほどな」と腑に落ちる意見だった。
「肯定」はありのままの現状を観察し、それを受容することで、「正当化」は現状に対してそれが良いか悪いかと考えたときに「良い」と評価すること、だと。とても分かりやすい。
次に、この話題を取り上げて記事にしてくださった二つのブログから気になったところを抜粋させていただく。まずは、けいろーさんの「ぐるりみち。」
じゃあ「自己肯定」と「自己正当化」の違いはどこにあるの?という話。僕個人の考えとしては、一口に言えば、「諦めているか、諦めていないか」の違いだと思います。
「自己肯定」という言葉には、良くも悪くも諦めた、諦観的な印象を受ける。
(中略)
善悪も是非も清濁も併せ呑んで、「そういう自分がいるんだから、しゃーないべ」と認め、諦めて受け入れているような。
他方で「自己正当化」には、完全には納得できてないような疑念、抗っているような様子が見える。自分ではそれが「正しい」ことだと考えているのだけれど、どこか煮え切らない。裏側に“否”があることを知っていても認められず、盲目的に振る舞っているような。
こちらもとても分かりやすく「肯定」と「正当化」を説明してくださっている。
「肯定」はどんな現状であれ、諦めてありのままを受け入れている感じ。
一方で、「正当化」は現状に対して、「正と否」という評価が存在していて、なんだかはっきりと「正」だと言い切れないんだけど、「否」だと認めたくもないから若干無理して「いいんだよ!これが俺なんだから!」と自他を納得させている感じ。
この「正当化」の“完全には納得できていない”という説明がとても的を得ているな、と思った。自分でも「これでいいのかな・・」という不安や疑いがあるんだけど、「これが俺なんだからいいだろー!」と突っ張っているような感じがある。
そして、けいろーさんの見解として「自己肯定感」を養うには、良くも悪くも“諦める”姿勢が必要なんじゃないか、と言っている。
そんな中で、その場凌ぎの「自己正当化」を避けつつ「自己肯定感」を養うには、日々の変化とありのままの自分を受容し、自然なものとして“諦める”ことが必要となってくるのではないかしら。
3年ほど自分のパーソナリティに悩み続けているが、今までに何度か「もう諦めて、全部受け入れるか」と思ったことがある。が、その都度「いやいや、こんなクズな性格を受け入れるわけにはいかない」と、どうしても諦めることができなかった。僕は自分の性格に関しては往生際が悪い。
だけど、以前よりは自分の性格を受け入れ、諦められる状態にはなってきていると思う。「もういいかな、さんざん悩んだし」という思いも少し出てきている。「あー俺ってこんなやつなのかーなるほどねー」と、あんまり自分の性格に捉われずぎないよう意識していきたい。
続いて、いつもお世話になっている「まじめ系クズの日常」というブログでも取り上げていただいたので紹介する。
「肯定でも正当化でも最初はいい」
線引きするものではない。
(中略)
自分を肯定したり正当化するのは正解を求める話ではなく、転んだ時にしっかり受け身を取れるようになること。
自己肯定感を養うというのは、「ああ、自分失敗したかも...」と感じた時に、すかさずリカバリをかけるための精神的な訓練。
(中略)
機能不全家庭ではここが機能せず、仕方なく自己防衛に走ることでしか自分を守れなくなってしまう。これにより発達に障害をきたす。いわば上手な受け身がとれなくなってしまう。失敗した時にすぐにへこたれてしまう。
今までのコメント、記事とはまた違う切り口からの意見。「肯定」と「正当化」の違いを明確にしてくれたこれまでの意見とはまた違ってこちらは、「今、僕が自己肯定と自己正当化のあいまいさに悩んでいる現状について分析し、アドバイスをくれている」という印象。
本来、自己肯定感というのは健全な家庭において、父母に支えられながら養われるもの。しかし、機能不全家族において成長した子どもは、自己肯定感が養われないため、自己防衛をするしかなくなってしまう、と。
この自己防衛というのは、さっきの「いいんだよ!これが俺なんだから!」という正当化に近いものなのかなと、僕なりに解釈している。
自己否定感に悩んでいる人は、味方が居ない。自分でさえも自分の敵や批評家になっている。できることは、自分がまず自分の味方になってやること
自己否定感を抱えている人は過剰に自分を過小評価しすぎな感じもあるので、バランス取る上で自己肯定や開き直るくらいのことはしてもいいように思います。というか、ただの通過点のような気もしてます。
自分が自分自身を「良いか悪いか」評価する批評家になるのはあまり良くない、と。そして今、僕がこうして悩んでいるのは、あくまで通過点にすぎない、と。今は、今の自分をそのまま受け入れて、思うままに思えばいい。もし、のちに「あれは、単なる正当化だった・・・堕落まっしぐらだった・・・」と振り返るのもそれはそれでよし。気づいたのならその時に修正していけばいいじゃないか、と。
正解を探そうとしすぎて怯えない。いろいろやってみて、間違ってたなと思ったら改善していけばいい。いちいち「俺、間違ってるかも・・?」なんて不安になって立ち止まらなくてもいいよ、ということを主張しているのだと理解した。(違ってたらごめんなさい・・)
整理するにはなんだか長く書きすぎた気がする。どのコメント、記事もすばらしくありがたいものだったので丁寧に取り上げていたら長くなってしまった。キレイに整理仕切れなかった感はあるが、だいたいもやもやは取れたのでよし、とする。
結論、「自己肯定」と「自己正当化」の言葉の違いは、「肯定」は自分自身のありのままの姿を観察し、自然な状態をある意味、諦めて受け入れること。「正当化」は自分自身に関して「正か否か」という評価が存在していて、完全には煮え切らないんだけど「いいんだよ、これで!」と自分を納得させること。
そして、僕自身に与える結論としては「肯定か?正当化か?で迷っている自分でさえも肯定し、開き直ってもいいから自分の味方になってあげよう」という感じ。
たった1日でここまでの結論が出せてよかった。多くの方々からの有益なコメントのおかげだ。コメントしてくださった方々、ありがとうございました。どれも参考になるものばかりでした。そして、勇気付けられるコメントも多数ありました。
最後に、これを見てすごくほっとできたコメントがあったのでそれを紹介しておしまい。
自分を「肯定」することと「正当化」することは違う - 生きづらいふ
言葉にとらわれなくていい。自分はこんな状態なのだと把握できてるだけで充分。次の段階がやってくるからね。
2014/12/08 23:56