これまでたくさんの記事を書いてきた。全部で220もある記事のなかで、生きづらさに関する記事が大半を占めている。淡々と書き連ねてきた文章の内容は、もちろんすべて事実であり、僕が実際に感じてきたことをそのまま文章にしてきた。
しかし、語っていないこともまだまだ多い。それに、人に見られることを意識したせいか、あまり語りたくない部分や、人に見られることを後ろめたく思う部分は曖昧な表現でごまかしたりしてきた。
また、キレイで読みやすい文章を書くことを意識していたこともあって、本当はもっと複雑で汚いはずである僕の感情や思いを、だいぶ着飾った形で文章にしていた。自分でもあまり気が付かないうちに、読者の目線を意識して、自分の感情や生きづらさを、ひとつの「作品」として、文章にしてきていたのだ。
そのことに気づいたのは、僕が以前やっていた「リアル」という個人サイトみたいなものを久しぶりに見返したのがきっかけだ。「リアル」とは、僕が中学生ぐらいのときに中高生のあいだで流行ったもので、個人サイト上でTwitterみたいに一言つぶやいたりする簡易日記サービスみたいなものだ。
このサービスは手軽に投稿できて、そしてURLを誰にも教えさえしなければ、知人・友人に見られる心配はない。だから、昔はここに自分の正直な気持ちとか感情をぶちまけて、ストレス発散の場としてよく使っていた。そして、このサイトは今でも残っていて、それを久しぶりに自分で見返してみたというわけ。
僕がもっとも生きづらさを感じていた時期の投稿が残っているため、だいぶ病んでいる自分自身の発言がたくさんあった。そこには、僕の怒りとか苦しみとかが生々しく激しい言葉で表現されていて、このブログとはまた違った文章で僕の生きづらさが語られていた。
それを見て、「あっ、こっちが僕の本音なんだ」と思った。もちろんこのブログに書いてきたことに嘘偽りはないし、正直に語ってきたつもりだ。けど、やっぱり「誰かに見られている」という意識があったせいで、だいぶキレイな形に脚色していた部分があったのだと思う。
きっと僕が人の目があるところで、ありのままの自分をさらけ出すのは難しいだろう。誰かに見下されたり、攻撃されたり、蔑まれることを怖れて、きちんとした文章を書こうとしてしまうだろう。自分の内に秘めている生々しい感情をぶちまけてしまうことは思っているより難しいのだ。
このブログは人目を意識して、キレイに着飾った文章で僕の生きづらさを表現してきたものだったのだと、いまさら気づいたのだ。ちょうど、家ではよれよれのTシャツに短パンでだらしない格好をしているのに、外出時はしっかりおしゃれをしていくのと同じだ。