ただ平凡な幸せを手に入れたい。そう思うのは贅沢だろうか。
誰もが羨む大成功とか、大それた人生なんていらない。ただただ平凡で、庶民的で、小さくて、ささいな日常に幸せを感じられる、そんな人生がほしいだけ。
小さい頃は、当たり前のようにそんな人生が手に入ると思っていた。よくも悪くも普通の人生を歩むのだろう、と。社会が作った"普通"の人生を歩むと信じていた。
22歳で大学を出て就職。スーツを来て普通のサラリーマンをやって、特別優秀なわけでも、反対に無能なわけでもない"普通"の社員として仕事していると思っていた。早ければ27歳、遅くとも32歳くらいまでには結婚して、子供ができていると思っていた。
そんな人生をリアルに描いていたわけでも、そんな人生を歩みたいと強く願っていたわけでもないけど、なぜか無根拠にそうなるだろうと空想していた。小さいころはドラえもんとかクレヨンしんちゃんを見ていて、そこで描かれるひと昔前の理想の家族像を当たり前だと信じていたからかもしれない。
いまも特別不幸なわけではない。少なくとも身の回りの環境としては。
衣食住は満たされている。それだけでも感謝すべきことかもしれない。
それなのに、毎日なにかが不満で、どこか満たされなくて、苦しい。
自分のことが好きになれず、仕事のことも好きになれず、毎日消耗している。なにかに向かって精力的に生きているわけではなく、毎日をやり過ごすように生きている。余暇の時間さえも、心から楽しんでいるわけではなく、ただ時間を埋めているだけのようだ。
そうじゃないんだ。
ただ平凡に幸せになりたいんだ。
それがどんな形なのかはわからない。平凡な幸せとはなんなのかと問われたら、明確に答えることはできないかもしれない。けど頭のなかでなんとなくイメージしている幸せ像ならある。
それはもしかすると、これまでの人生で触れてきたいろんな作品のなかからかいつまんだり、そこから着想してつくった自分なりの幸せ像なのかもしれない。読んだ小説、見たドラマ、映画。そんな作品のなかで描かれたいろんな幸せを集めて作った幸せ像。
そこまで高望みしていないはずなのに。それでさえ幸せを手に入れるのはこんなにも難しいのかと。日々こんなに耐え忍んでいるのに。心身をすり減らしながらも我慢しているというのに。
幸せとはほんとうに存在するのかとさえ疑ってしまう。
でも、心のどこかではわかっている。幸せはそこら中にあるのだと。それに自分が気づいていないだけなんじゃないか。もしくは気づこうとしていないだけなんじゃないか。もしかすると、ぼくは自分で不幸でい続けることを選択しているのかもしれない。
幸せになるには自分自身が変わらないといけないと薄々わかっている。
けどいったいどうすれば。その方法がわからない。
しかし、仮に方法がわかった時、ぼくは真っ先に幸せへと向かって突き進むだろうか。
もしかしたら、まだ不幸でい続けることを選ぶかもしれない。わからない。けどそんなような気もしてしまう。なぜだろう。幸せになることを望んでいるはずなのに。
どこかで不幸でいることに安心を覚えているのかもしれない。長年慣れ親しんだ場所から抜け出すことが怖いのかもしれない。オンボロの狭い狭い家に住み続けた結果、きれいで広い新築の家に引っ越すチャンスができたとしても、安心感からオンボロの家に住み続けることを選択するような感覚かもしれない。
幸せになるのは思っていたより難しい。
けどせめてこの、幸せになりたい、という気持ちは大切にしたい。
本当にダメなときは生きる活力が一切なく、いますぐここから消えてなくなりたいと思ってしまう。
ただそこから這い上がって幸せになりたいと思えるようになったのなら、それは生きようと思っている証拠で、なおかついまより良くなりたいという前向きな思いだ。
実際にどうしたらいいのかはわからない。
けどいまより、良く生きようと思う気持ちは大切に、自分を励ましながら生きていきたい。
そして、いつか日常のほんのささいな出来事に幸せを感じられるようになりたい。