香山リカ・辛 淑玉の『いじめるな!-弱い者いじめ社会ニッポン』を読んだ。
精神科医・香山リカさんと人材育成コンサルタント・辛 淑玉さんのお二人が「いじめ」が蔓延するニッポン社会について語り合うという対談形式の本だ。
二人の話は「いじめ」に限らず、社会的弱者の生きづらさにまで及んでいる。特に辛 淑玉さんは構造的弱者の支援のための活動をしている方らしく、弱者やマイノリティの人を支援したい!という熱い想いが活字からも伝わってきた。
対談の中で、辛 淑玉さんが繰り返し主張していたことがある。その主張は今のニッポン社会に向けられた警鐘だと感じたので紹介したい。
ニッポン社会で「いじめ」が蔓延している背景には、古くからニッポンにある「和をもって貴しとなす」の精神がある、と辛さんは言う。
日本人は「和」や「調和」を重視し、他者に対してあまり強く自己主張をしない。それが「いじめ」や「弱者排除」を生む一因なのではないだろうか。そういったことを辛さんは繰り返し主張している。
辛「人と衝突したら終わりみたいに思い込む感覚は、とても日本的だね。」
辛「アメリカにしてもあるいはアジアのどこの国にしても、自分の意見や言い分を主張して、ぶつかるところから関係の調整が始まると考える。
ところが、日本はケンカしちゃったら終わりで、そこで相手との関係が悪化して切れてしまうみたいに考える。だから、いかに相手とぶつからないようにするかに腐心するし、 黙っていても相手を理解するような能力を身につけることが求められる。」
ケンカを必要以上に恐れる傾向は確かにある気がする。僕もあまりケンカはしたくない。ただ日ごろから、自分の意見を押し殺すよりは、程よく自己主張していきたいとは思っている。
また、こういった自己主張の不足やコミュニケーション能力の欠落が、嫌いな人との調整を難しくしているという。生きていれば必ず、嫌いな人や不快な人・付き合いたくない人が出てくる。ときにはそういった人とも付き合っていかなくてはならない。
日本人は他者との調整能力に乏しいため、嫌いな人が現れたとき、すぐにその嫌いな人を「排除」しようとする。村八分どころか「村十分」にするほど、徹底的に排除しようとする。
辛「この国では、嫌いなやつと一緒に生きていく力が湧くことがない。そういうことを勉強することもない。嫌いな人とも一緒に生きていく術を考えるには、何でも「和」を基本とする習慣から脱出するしかないんじゃないかと思うのね。」
辛「面と向かって、意見を交わし合うことだよ。
(中略」
辛「そういうものが大人の社会にない。子どもたちがケンカしても、どっちが何したくらいは聞くけれど、なんとなくうやむやなまま「○○ちゃんもこうして謝っているから、もう許してあげなさい」「はい、仲直りしましょう」とかやる。どんなひどいことをやられたのか、それをどういうふうに感じたのか、どうしてそれをやっちゃったのか、どうしてやっちゃいけないのか、とことんそういったかたちで話し合いをして、「じゃあ、どうしていこう」という仲裁をする大人がいるか?本当はそれが必要なわけでしょ?だけど、そんなことのできる学校の先生はまずいない。
聖徳太子の時代から日本にある「和をもって貴しとなす」という精神を見直し、自己主張をしていこうと辛さんは繰り返し主張する。
たしかに、自分の嫌いな人との付き合い方が日本人はうまくない印象だ。気に食わなければすぐ「排除」しようとする。それが極端なレベルまでいくと殺人事件にも繋がったりする。
気に食わない相手に対しても、自分の意見を言う。相手も自分の意見を言う。そうして関係を「調整」していくことが本当のコミュニケーションなのではないか。意見を言い合うことは関係の終わりを意味するものではなく、関係の発展を意味するのだ。
そうは言っても、これだけ調和を重視する日本人にとって、相手にがんがん意見を言うというのはかなりハードルが高いと思う。しかし、自己主張の不足やコミュニケーション能力の欠如が、「いじめ」や「弱者排除」を生んでいる可能性は否定できないと思う。
意見の衝突は関係の終了ではなく、関係の調整、そして発展に繋がるということを理解していくことが必要だと思う。
ずばずば自分の意見を言える人に憧れるコミュ障の書評でした。