いつも予防線を張っている。失敗したときのために、誰かにツッコまれないために。ツイッターとかブログで自分の意見を言うとき、誰にもツッコまれたくなくて、否定されたくなくて、どちらにも偏らない意見を言う。また、自分が失敗したときのショックを和らげるために、あらかじめ失敗を想定しておく。そして失敗したとき「知ってた」と失敗した自分から目を背ける。
ブログをはじめたばかりのころ、ある記事がちょっと炎上した。そのとき経験した、「自分の意見への批判」がすごくこわくて、それ以来、意見や考えを書くときはあたりさわりのない表現をするようになった。それだけでなく、ある人の影響で、いろんなことを考えるとき、どんなことにおいても断言できるほどの真実はこの世にない、と思うようになった。
だからいつでも、語尾に「~かもしれない」とか「~な気がする」という、あくまで断定しない表現をするようになった。そうすることで、以前より物事を柔軟に捉えられるようになった。Aという可能性もあるし、Bという可能性もある、けどCという可能性だってある、という感じで。
けど今日思ったのは、そういう表現ばっかりしていたら、いつまでも自分のなかに「軸」とか「芯」みたいなものが生まれないんじゃないか、と。個人の価値観、考えはある程度偏るものだし、他人からしたら理解できないものも当然ある。でも、それを自分にとっての「軸」や「芯」として持ち続けるから、人生をしっかりと歩いていくことができるんじゃないか。そう思うようになった。
あらかじめ失敗を想定しておくことも、あまりしないほうがいいんじゃないか、と思った。あらかじめ失敗を想定して、そのときのための対策を用意しておくという意味においては大事なことだと思う。けど僕の場合、失敗を想定しておくことの意味は、「失敗したときのショックの和らげ」だ。そして失敗したときのための「言い訳」でもある。
自分が失敗するなんてありえない、というプライドがあるためそういうことをする。失敗を真正面から受け止められないのだ。そういう弱さがある。けど、それでは自分は変わっていかない。進歩していかない。失敗して、学んで、改善して、はじめて進歩するのに、失敗した自分に言い訳をして、学ばなければいつまでたっても進歩はない。
だから僕はあんまり挫折というものを味わったことがない。たとえば第一志望の大学にどうしても入りたくて一生懸命勉強したけどダメで挫折とか、部活でレギュラーになるために努力したけど挫折とか。そういうのがない。いつも「どうせダメだろうなぁ」という予防線を張っておくから、実際ダメだったときに「やっぱりな」で済ませてしまう。
そこで予防線を張らずに一直線に進んでいれば、もしダメだったときに本気で悔しがるはずだ。もちろん落ち込んだりもするだろうけど、それをバネにしてまたがんばろうと思うはずだ。そのほうが進歩していけるんじゃないだろうか。
だから予防線を張るのはほどほどにしたい。人になにかを言うときとかは自分の意見を押し付けないために、相手の意見を尊重するために「~かもしれない」などという表現を使ったほうがまるくおさまると思うので、予防線を張るのは有効だと思う。けど、自分のなかの価値観においてはビシっと意見を持っておこうかと思う。もしそれが間違っているなと自分で思ったら、その都度変えていけばいい。
いまはちょっとしたことですぐネットで批判され、つるし上げられる時代だ。だからネットでの発言には多少、気をつかったほうがいいと思う。けど頭のなかでは自分の価値観、意見に自信を持っていたい。自分の「軸」を持つために。